2010年8月18日水曜日

虹色模様の多様性と企業自体の変質の可能性

パレード自体にものすごくいろいろな議論が寄せられていて、いろいろな人がいろいろな自分を投影したりしなかったりできなかったりして、誰々とは同じカテゴリだってみられたくないとか、「セクシャルマイノリティ」っていう枠が今の社会で有効に機能するのか、とか一緒くたにされることにはいろいろな問題があるし、そもそも違うものっていうのはもちろんそうだと思うんです。

企業が参加することにもいっぱい問題があると思うんです。所詮企業としては美味しいイメージに乗っかりたいだけだとか、表向きだけのサポートに意味はあるのかとか、結局なんのためにやってんのかとか、意味はあるのかとか。企業が参加することでそこから阻害されてしまう人はいるよねとか、普段は弱い人をくいものにして、こういう時だけクリーンなイメージをさらにくいものにするのかとか、企業として参加する側がすごく考えなきゃいけないことも多いとおもいます。

誰かの意見を否定するつもりはなくて、いろいろみんなで考えなきゃいけないことはもちろん多いと思うんです。それでもあえて今回、パレードに一般企業の側にゲイとして参加してみての印象として、僕といっしょにボランティアとして参加してくれた多くの(たぶん)ヘテロセクシャルの同僚の人たちは、すごく楽しくパレードを過ごしてくれました。ほぼ一日中参加してくれた人、隊列に参加してたくさんのひとたちと一緒に歩いてきてくれた人、僕が他のボランティア活動でいない間にメディアの対応をしてくれていた人。パレードが終わって週明けに、アンケートを実施したんですが、1日でほぼすべての人が回答してくれて、すべての人が「楽しかった」「会社がサポートすることに意義を感じた」と回答してくれています。

その中でも、最初から作業そっちのけで、パレードを社員の誰よりも楽しんでくれていたであろう先輩は、アンケートの「一番印象的だったエピソードは?」という項目に、以下のように答えてくださいました。


ゲイバーのママに誘われてパレードに参加した内気なバーのお客さん。女装している彼はスタート時こそ所在なさげだったが、沿道の観客から声援を受け、徐々に自信を得ている様子がうかがえた。ママが「家でじっとしてたらダメ。自分とおんなじ人がこんなに沢山いるって分かって、来て良かったでしょ?」と問いかけると、こくんと頷く彼女。すぐさま背負っていたピンク色のリュックサックから虹色模様の横断幕を取り出し、隣で歩いていたママのお店の別の女の子と一緒に頭上で掲げた。そこからゴールするまでの30分間、風に揺れる虹の横断幕と前を向いて歩く彼女達から、私はプライドを感じることができました。これが東京プライドパレードで一番印象的だった出来事です。


セクシャルマイノリティに限らず、社会に生きる多くの人がかかえているいろいろな問題はもちろんあると思います。パレードがその解決になることも、ならないことも、その問題を助長することも、もちろんあるかもしれません。今回僕が企業側として参加したことも一緒ですし、何かボランティア活動をすることだってそうだったと思います。誰かが自分の視点で社会に対して働きかけるときは何らかの「抜け漏れ」があるし、それが独善的なものになってしまう危険性はもちろんあるとおもうんです。そもそも余計なお世話かもしれないし。

でも、ぼくはこのエピソードを、パートナーとお子さんと一緒に参加してくれたヘテロセクシャルの先輩が教えてくれたこと、このエピソードと共にその事自体に、なにか大きな可能性を感じたしとても力づけられました。このおはなしだけでも、パレードをサポートしたことにものすごく意義があったと手応えを感じたのです。

あえてしつこく書きますが、先輩は「ゲイバー」と書いていますが、ここに登場する「彼/彼女」が性自認として女性で戸籍は男性なのか、異性装の同性愛者なのか、異性装の異性愛者なのかはもちろんわかりません。重要なのは、「彼女/彼」が先輩からみて自身のあり方をこの場で受け入れることができたように見えたこと、そして、そのあり方におそらく異性愛者で「一般企業」として参加した先輩が「プライドを感じることができた」ことです。

僕自身レインボーフラッグにつねにものすごくシンパシーを感じるわけではありません。しかし、「彼/彼女」がピンク色のリュックから取り出した虹色模様の横断幕には強いシンパシーを感じます。僕たちの一番の武器は多様性そのものだと信じます。

僕が感じた視座は二つです。そしてそれは当たり前のことすぎて今更声を上げるまでもないことです。パレードに一般企業が参加することにはたくさんの問題がありますし検討が必要ですが、参加によってコミュニティの側のみならず、一般企業の側が持ち帰るものもとても沢山あるかもしれない、ということ。それから、ひとくくりにマイノリティといってもたくさんの違いはあると思うんですが、圧倒的なマジョリティから同一視されているマイノリティが、共闘することに(敢えて書いていますが)ものすごく意味があるのではないかということです。

それに伴う議論の可能性を否定したり、差異の無化やマイノリティからの他のマイノリティへの無遠慮を肯定するものではありません。とりあえずはじめてみるところからみんなで考えてみてもいいんじゃないという、ずーっとみんなが考えていることを、この先輩の話から改めて感じて確認したいのです。